明治維新前夜の太平洋


明治維新前夜の太平洋

江戸時代の「鎖国」と国際情勢

(海外への日本の窓 長崎「出島」1824年-1825年頃)

  一般的に、江戸時代は鎖国により国家が安定していたと言われるが、鎖国とは当時の「政権(幕府)による国内統治のための政策」であり、現在でいうと『自主規制』であった。 さらに当初は極東の小さい島国である日本に諸外国が強い関心を寄せていなかったので、「鎖国」の効果は政権(幕府)の期待通りに機能していた。
幕末に「開国」を主導した井伊直弼が「鎖国」のことを「閉洋之御法」とも呼んでおり、籠城と同じようなものだと見做していたことからも察せられる。 なお、「鎖国」という用語が広く使われるようになったのは明治以降で、近年では制度としての「鎖国」はなかったとする見方が主流となった。しかし、徳川幕府が鎖国を敷いてきた間も海外との接触は細々と続いており、日本の革命ともいえる明治維新にどう影響を与えたのか明治維新前夜の動きを検証する。


1639年、江戸幕府による南蛮船入港禁止令

  日本の江戸幕府が南蛮船入港禁止令を施行したのは1639年(寛永16年)のことである。それまでもキリスト教布教禁止や、アジア各国との貿易について管理を強化していたので、この禁止令は「キリスト教国(スペインとポルトガル)人の来航、及び日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した南蛮(ポルトガル)船入港禁止令」であった。
禁止令以降の対外関係は朝鮮王朝(朝鮮国)及び琉球王国との「通信」(正規の外交)、中国(明朝と清朝)及びオランダ(オランダ東インド会社)との間の通商関係に限定されていた。
「鎖国」中の取引というとオランダとの貿易が取り上げられるが、実際には幕府が認めていた  オランダとの貿易額は中国の半分であった。
このような海外との交流・貿易を制限する政策は江戸時代の日本だけにみられた政策ではなく、同時代の東北アジア諸国でも「海禁政策」が採られていたという。
「鎖国」政策は、徳川幕府の法令の中では徹底された部類ではあったが、特例として認められていた松前藩、対馬藩や薩摩藩では、徳川幕府の許容以上の額を密貿易(抜け荷)として行い、 それ以外の領内を大洋に接する諸藩も密貿易をたびたび行っていた。
これに対して、新井白石や徳川吉宗ら歴代の幕府首脳はたびたび禁令を発して取締りを強めてきたが、財政難に悩む諸藩による密貿易は続けられていた。中には、石見浜田藩のように、藩ぐるみで密貿易(朝鮮、清)に関わった上に、自藩の船団を仕立てて東南アジアにまで派遣していた例もあったという。
一方、幕府は「鎖国」中も唐船風説書やオランダ風説書(ふうせつがき)を通じて海外の情報を受信していた。 さらに、出島のオランダ商館長からは1641年以降1859年まで毎年海外情報報告書「オランダ風説書」が幕府へ提出させていた。


別段風説書による海外情報収集

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1840年のアヘン戦争発生をきっかけに、オランダのバタヴィヤ政庁はイギリス系新聞を基にした別段風説書を毎年提出するようになった。
別段風説書では1846年のアメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルや1852年のマシュー・ペリーの来航予告のほか、1850年の英仏間海底通信ケーブル敷設といった情報も伝えていた。当然これらの情報は、オランダ政府の意図を汲んで作成されているものの、新聞掲載記事や風評なども併せて伝えていた。
『安政四年丁巳別段風説書並添書 (Ansei 4-nen hinotomi betsudan fusetsugaki narabi-ni soegaki)』 安政5年 (1858) この写本はクルチウスが安政4年 (1857) 12月に長崎鎮台へ差し出し、 安政5年1月に訳された。これらの風説書は幕府の最高意思決定機関へも届けられ、自国防衛あるいは海防を担う親藩は防衛対策を強化している。

幕末の世界情勢

   日本の「鎖国」を外圧でこじ開けた端的な事実は「ペリーの浦賀来航」であるが、ペリーがなぜ日本へ来たのかその契機を考えてみたい。 先述のように「鎖国」は自主規制であり来る者を拒む政策であるから、ペリー(米国)にとって日本へ開国を迫る必要性があったはずである。そしてその「必要性」を生じた原因とは具体的に何だったと推定されるだろうか。筆者は当時の情勢からみて、1700年代後半に英国で始まった蒸気機関などの動力源の発明や実用化により社会環境が大きく変わった=「産業革命」ことがその原因であると考える。
産業革命は、蒸気機関の発明による動力機関の変革・発明を端緒とした一連の技術革新であり、それは動力源の多様化を生み、大量生産を可能とする生産設備の革新を引き起こした。またこのことは、市民の価値観や社会構造を変え、経済的な地域格差を生じさせることとなり、具体的には以下の三点の状況を招いた。

  • ●長時間稼働する工場のための潤滑油や灯火に欠かせない鯨油の需要の増加により、マッコウクジラ漁が盛んになった。
  • ●生産設備の革新により、大量生産が可能になり市場拡大が求められたこと。
  • ●商品や原料を大量に長距離運搬する大型船の運航が可能になったこと。

産業革命の影響

  産業革命は、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった一連の産業の変革と、それに伴う社会構造の変革のことである。 産業革命において特に重要な変革とみなされるものには、綿織物の生産過程における様々な技術革新、製鉄業の成長、そしてなによりも1770年代のジェームズ・ワットによる蒸気機関の実用化による動力源の刷新が挙げられる。これによって工場制機械工業が成立し、また蒸気機関の交通機関への応用によって蒸気船や鉄道が発明されたことにより交通革命が起こった。
更に、1800年、アレッサンドロ・ボルタによる「ボルタ電池」の発明により、それまでの静電発電機よりも安定的に動作する電源が確保でき、電気の研究が進む。同時にこれらの研究成果等に基づき、電気通信が1839年にチャールズ・ホイートストンとウィリアム・フォザギル・クックにより商業化される。 1850年には英国ドーバーと仏カレーの間に世界で初めて実用的な海底通信ケーブが敷設され、1866年には大西洋横断通信ケーブルが完成し(英米)大陸間の電気通信時代が始まることになる。
このように18世紀後半の英国に始まった産業革命は生産設備の革新により、その後商品の大量生産時代を惹起する。 西ヨーロッパ各国は、大量生産(マスプロダクション)された工業品の輸出拡大の必要性から、インドを中心に東南アジアと中国大陸の清への市場拡大を急ぐことなり、後にそれは熾烈な植民地獲得競争となる。市場拡大競争にはイギリス優勢のもとフランスなどが先んじていた。

捕鯨は太平洋へ

  また産業革命により欧米の工場やオフィスは夜遅くまで稼動するようになる。 これにより、機械の潤滑油や、灯火の燃料が必要となり、その原料として主に使われていたマッコウクジラの鯨油の需要が伸びた。
この需要を満たすため、欧米の国々は日本沿岸を含む世界中の海で捕鯨を盛んに行なっていた。 日本近海では伊豆諸島・小笠原諸島などジャパンクラウドと呼ばれる漁場、カムチャツカ半島東方のカムチャツカ クラウドと呼ばれる漁場が捕鯨の好漁場として知られていた。当時の捕鯨船は船上で鯨油の抽出を行っていたため、大量の薪・水が必要であり、長期航海用の食料も含め、太平洋での補給拠点が求められていた。また、難破船の問題もあり、各国は日本に対し港を開放するように迫っていた。
1833年当時の人口は、アメリカが約1416万人、清が約4億人、日本が1834年に約2760万人であった。

米国の状況

  ペリーが浦賀へ来航するころのアメリカ合衆国は、米国内のフロンティア解消(国内市場拡大)を優先している時期に当たり、欧州列強のようにインドや東南アジアに拠点を持っていなかった。しかし、米国東海岸を基地とする捕鯨船は大西洋でのマッコウクジラ資源の減少により太平洋へその漁場を求めており、水や食料、燃料などの補給拠点を求めていた。さらに、加えて難破船の問題もあった。漂流民の保護は当時のアメリカ海軍の任務の一つであり、1849年にはジェームス・グリンが難破した米国捕鯨船乗組員を受け取るために長崎に来航している。その費用の観点からも、太平洋に面する日本と条約を締結することは有利であった。

若狭湾沖を航路とする大圏図法

    アメリカはすでに1846年にイギリスとの交渉でオレゴンの南半分をその領土としていたが、1846年 - 1848年の米墨戦争でカリフォルニアを獲得した。
これによりアメリカは太平洋国家となり、巨大市場である清との貿易開拓が国家目標となった。
アメリカ西海岸から中国に至る最短航路(大圏コース)は、西海岸から北上し、アリューシャン列島・千島列島沿いに南下、津軽海峡と対馬海峡を通過して上海付近に至るものである。
このため、津軽海峡に面した松前(実際に開港したのは箱館)に補給拠点をおくことが望まれた。さらに、米墨戦争での勝利により、それまで主力艦隊とされていたメキシコ湾艦隊の必要性が低下し、海軍は組織規模維持のため東インド艦隊の役割を拡大する必要が生じた。

米国船の来航事件

  このような米国側の事情を反映した事件が1790年以降頻発する。

  • ●1791年(寛政3年) 冒険商人ジョン・ケンドリックが2隻の船とともに紀伊大島に上陸。日本を訪れた最初のアメリカ人となった。
  • ●1797年(寛政9年) オランダがフランスに占領されてしまったため、数隻のアメリカ船がオランダ国旗を掲げて出島での貿易を行う。1809年(文化6年)までに13回の来航が記録されている。
  • ●1830年(天保元年) 小笠原諸島の父島にナサニエル・セイヴァリーが上陸。
  • ●1835年(天保6年) 大統領アンドリュー・ジャクソンは、エドマンド・ロバーツ(Edmund Roberts)を特命使節とし、清、日本との交渉のためにアジアに派遣したが、ロバーツは中国で死亡した。ロバーツをアジアに送り届けるため、東インド艦隊が編成された。
  • ●1837年(天保8年) アメリカ商人チャールズ・キングが商船モリソン号で音吉など漂流民を日本に送り届けるため浦賀に渡航。1808年の長崎でのイギリス軍艦の起こしたフェートン号事件以降の異国船打払令に基づき、日本側砲台がモリソン号を砲撃した(モリソン号事件)。
  • ●1844年(天保15年)7月29日、オランダ政府はオランダ国王の親書を軍艦で江戸幕府に届ける旨を予め商船船長のヒイトル・アオヘルト・ヒツキから江戸幕府に通知させたうえ、8月15日には軍艦長ハーエス・コープスがこれを届けた。親書は江戸幕府が鎖国を解くよう、またオランダ船やその船員、日本人に対する待遇を改善するよう求めたもので、美術品や地図、植物図鑑、天文学書などが付されていた。
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  • ●1845年(弘化2年) 捕鯨船マンハッタン号が、22人の日本人漂流民を救助し、船長マーケイター・クーパーは浦賀への入港を許可され浦賀奉行と対面した。
  • ●1846年(弘化3年)閏5月 -アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルがコロンバス号、ビンセンス号の2隻の軍艦を率いて浦賀に渡航し通商を求めるも拒否される。米軍艦の初の日本寄港であった。
  • ●1846年(弘化3年) アメリカ捕鯨船ローレンス号の乗員、択捉島に漂着。翌年長崎でオランダ船に引き渡される。
  • ●1848年(嘉永元年) アメリカ捕鯨船ラゴダ号の乗員、西蝦夷地に漂着。ローレンス号の乗員と同じく長崎に護送されるが、脱走を試みるなどしたため、入牢させられる。これがアメリカには、「アメリカ人が虐待されている」と伝わる。
  • ●1848年(嘉永元年) ラナルド・マクドナルド、日本人に英語を教えようと、自らの意志で密入国
  • ●1849年(嘉永2年) 東インド艦隊のジェームス・グリンを艦長とするアメリカ軍艦プレブル号が長崎に渡航し、前年に漂着したラゴダ号の船員とマクドナルドを受け取り退去する。この時、グリンの示した「毅然たる態度」が、後のペリーの計画に影響を与える。

  このような状況の中、1851年5月29日(嘉永4年4月30日)アメリカ合衆国第13代大統領ミラード・フィルモア(写真)は、日本の開国と通商関係を結ぶことを目指し、東インド艦隊司令官の代将ジョン・オーリックに遣日特使としてその任務を与え、1851年6月8日に蒸気フリゲート「サスケハナ」は東インド艦隊の旗艦となるべく極東に向かって出発した。
しかし、オーリックはサスケハナの艦長とトラブルを起こしたことで解任され、1852年2月、代将マシュー・カルブレース・ペリーにその任が与えられた。

オランダによるペリー来航の予告

  「鎖国」中も幕府は唐船風説書やオランダ風説書を通じて海外の情報を受信していた。1840年のアヘン戦争発生をきっかけに、オランダのバタヴィヤ政庁はイギリス系新聞を基にした別段風説書を毎年提出するようになった。別段風説書では1846年のアメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルや1852年のマシュー・ペリーの来航予告のほか、1850年の英仏間海底通信ケーブル敷設といった情報も伝えていた。

1852年7月21日(嘉永5年6月5日)、オランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスは長崎奉行に「別段風説書」を提出した。そこには、アメリカが日本との条約締結を求めており、そのために艦隊を派遣することが記載されており、中国周辺のアメリカ軍艦5隻と、アメリカから派遣される予定の4隻の艦名とともに、司令官がオーリックからペリーに代わったらしいこと、また艦隊は陸戦用の兵士と兵器を搭載しているとの噂があるとも告げていた。出航は4月下旬以降になろうと言われているとも伝えた。

さらに、6月25日付けのオランダ領東インド総督バン・トゥイストからの長崎奉行宛の親書(『大尊君長崎御奉行様』)を提出したが、そこにはアメリカ使節派遣に対処するオランダの推奨案として「長崎港での通商を許し、長崎へ駐在公使を受け入れ、商館建築を許す。

外国人との交易は江戸、京、大坂、堺、長崎、五ヶ所の商人に限る」など合計十項目にわたる、いわゆる通商条約素案が示されていた。また、1844年の親書のあとも開国されなかったため国王は失望しているが、もし戦争になればオランダ人にも影響が及びかねないなどの懸念を表していた

 

老中首座、阿部正弘の判断

  老中首座阿部正弘は、夏ごろには溜間詰の譜代大名に先述の「別段風説書」を回覧した。海岸防禦御用掛(海防掛)にも意見を聞いたが、通商条約は結ぶべきではないとの回答を得た。

また、長崎奉行もオランダ人は信用できないとしたため(以前にオランダ風説書でイギリスの香港総督ジョン・バウリングの渡航が予告されたがそれはなく、すべての情報が正しいわけではなかった)、幕府の対応は三浦半島の防備を強化するために川越藩・彦根藩の兵を増やした程度であった。

  加えて、幕府内でもこの情報は奉行レベルまでの上層部に留めおかれ、来航が予想される浦賀の与力等には伝えられていなかった。他方、外様の島津斉彬には年末までに口頭でこの情報が伝えられたようであり、斉彬は翌年(1953年)のアメリカ海軍東インド艦隊の琉球渡航以降の動静を阿部正弘に報告し、両者は危機感を持ったが幕府内では少数派であった。

なお、アメリカ政府はペリーの日本派遣を決めると、オランダのヘーグに駐在するアメリカ代理公使・フォルソムを通じ、通商交渉使節の派遣とその平和的な目的を、オランダ政府が日本に通告してくれるよう依頼した。しかしこの書簡(1852年7月2日付け)は、オランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスが日本に向けジャワを出発した後にオランダ領インド総督バン・トゥイストの手元に届いたので、日本には届いていない。ただし翌年、すなわちペリーが来航した1853年(嘉永6年)提出の別段風説書では、ペリー派遣の目的は通商関係を結ぶことが目的の平和的なものであると述べている。

米国海軍からの訓令と実施計画

  ペリーは、海軍長官ケネディから1852年11月13日(嘉永5年10月3日)付けで訓令を受けている。
その主な内容は、対日使命遂行のため広範な自由裁量権の行使、日本沿岸及び隣接大陸や諸島の探検も行い、行く先々の諸国や諸地方の社会・政治・商業状況、特に商業の新しい対象について、できうる限りの情報を収集することなどである。

ペリーは日本開国任務が与えられる1年以上前の1851年1月、日本遠征の独自の基本計画を海軍長官ウィリアム・アレクサンダー・グラハムに提出していた。そこで彼は、以下のように述べている。


  • ●任務成功のためには4隻の軍艦が必要で、その内3隻は大型の蒸気軍艦であること。日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、目で見ることで近代国家の軍事力を認識できるだろう。
  • ●中国人に対したのと同様に、日本人に対しても「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」。
  • ●オランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき。

米国東海岸ノーフォーク港出港

  日本開国任務が与えられると、計画はさらに大掛かりになり、東インド艦隊所属の「サスケハナ」、「サラトガ」、「プリマス」に加え、本国艦隊の蒸気艦4隻、帆走戦列艦1隻、帆走スループ2隻、帆走補給艦3隻からなる合計13隻の大艦隊の編成を要求した。しかし、予定した本国艦隊の蒸気軍艦4隻の内、使用できるのは「ミシシッピ」のみであった。さらに戦列艦は費用がかかりすぎるため除外され、代わりに西インドから帰国したばかりの蒸気フリゲート「ポーハタン」が加わることとなった。

  1852年11月24日、58歳のマシュー・カルブレース・ペリー司令長官兼遣日大使を乗せた蒸気フリゲート「ミシシッピ号」は、単艦でノーフォークを出港し、一路アジアへと向かった。
ペリーはタカ派の大統領フィルモア(ホイッグ党)から、琉球の占領もやむなしと言われていた。
  ミシシッピは大西洋を渡って、南アフリカのケープタウン(1月24日 - 2月3日、セイロン(3月10日 - 15日)、マラッカ海峡からシンガポール(3月25日 - 29日)、マカオ・香港(4月7日 - 28日)を経て、上海に5月4日に到着した。

この間、各港で石炭補給を行った。香港でプリマス(帆走スループ)およびサプライ(帆走補給艦)と合流、上海で蒸気フリゲート「サスケハナ」と合流した。このとき、すでに大統領は民主党のピアースに代わっていて、彼の下でドッピン海軍長官は侵略目的の武力行使を禁止したが、航海途上のペリーには届いていなかった。

なお、途中マカオにてサミュエル・ウィリアムズを漢文通訳として、上海でアントン・ポートマンをオランダ語通訳として雇用し、日本への航海途中にフィルモア大統領親書の漢文版およびオランダ語版を作成している。

琉球来航

  1953年、上海でサスケハナ号(写真)に旗艦を移したペリー艦隊は5月17日に出航し、5月26日に琉球王国(薩摩藩影響下にある)の那覇沖に停泊した。ペリーは首里城への訪問を打診したが、琉球王国側はこれを拒否した。しかし、ペリーはこれを無視して、武装した兵員を率いて上陸し、市内を行進しながら首里城まで進軍した。
琉球王国は仕方なく、武具の持込と兵の入城だけは拒否するとして、ペリーは武装解除した士官数名とともに入城した。ペリー一行は北殿で茶と菓子程度でもてなされ、開国を促す大統領親書を手渡した。さらに場所を城外の大美御殿に移し、酒と料理でもてなされた。ペリーは感謝して、返礼に王国高官を「サスケハナ」に招待し、同行のフランス人シェフの料理を振舞った。

しかし、王国が用意したもてなしは、来客への慣例として行ったものに過ぎず、清からの冊封使に対するもてなしよりも下位の料理を出すことで、暗黙の内にペリーへの拒否(親書の返答)を示していた(多くの国が来客に対して使う手法である)。
友好的に振舞ったことで武力制圧を免れたものの、琉球王国はこの後もペリーの日本への中継点として活用された。この経緯は当時の琉球側がまとめた『琉球王国評定所文書』に詳細に記されている。
ペリーは艦隊の一部を那覇に駐屯させ、自らは6月9日に出航、6月14日から6月18日にかけて、まだ領有のはっきりしない小笠原諸島を探検した。このとき、ペリーは小笠原の領有を宣言したが、即座にイギリスから抗議を受け、ロシア船も抗議のために小笠原近海へ南下したため、宣言はうやむやになった。
(後に日本は林子平著『三国通覧図説』の記述を根拠として領有を主張し[要出典]、水野忠徳を派遣して八丈島住民などを積極的に移住させることで、イギリスやロシア、アメリカなどの当時の列強諸国に領有権を認めさせることになる。)
ペリーは6月23日に一度琉球へ帰還し、再び艦隊の一部を残したまま、7月2日に大統領からの親書を手に3隻を率いて日本へ出航した。

  1853年7月8日(嘉永6年6月3日)に浦賀沖に午後5時に現れ、停泊した。
日本人が初めて見た艦は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものであった。

黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、帆船を1艦ずつ曳航しながら煙突からはもうもうと煙を上げていた。
その様子から、日本人は「黒船」と呼んだ。
  浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピ」(同)、「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマス」(同)の4隻からなっていた。大砲は計73門あり、急な日本側からの襲撃を恐れ臨戦態勢をとりながら、上陸に備えて勝手に江戸湾の測量などを行い始めた。


庶民の様子

  さらに、アメリカ独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射した。この件は事前に日本側に通告があったため、町民にその旨のお触れも出てはいたのだが、最初の砲撃によって江戸は大混乱となったが、やがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んだと伝えられる。

浦賀は見物人でいっぱいになり、勝手に小船で近くまで繰り出し、上船して接触を試みるものもあったが、幕府から武士や町人に対して、「十分に警戒するよう」にとのお触れが出ると、実弾砲撃の噂とともに、次第に不安が広がるようになった。このときの様子をして「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」という狂歌が詠まれた。  上喜撰とは緑茶の銘柄である「喜撰」の上物という意味であり、「上喜撰の茶を四杯飲んだだけだが(カフェインの作用により)夜眠れなくなる」という表向きの意味と、「わずか四杯(ときに船を1杯、2杯とも数える)の異国からの蒸気船(上喜撰)のために国内が騒乱し夜も眠れないでいる」という意味をかけて揶揄している。

幕府の対応

  7月9日(嘉永6年6月4日)幕府は、船上のペリーに対してまず浦賀奉行所与力の中島三郎助を派遣し、ペリーの渡航が将軍にアメリカ合衆国大統領親書を渡すことが目的であることを把握したが、ペリー側は幕府側の与力の階級が低過ぎるとして親書を預けることを拒否した。
続いて7月10日(嘉永6年6月5日)浦賀奉行所与力香山栄左衛門が浦賀奉行と称して訪ねた。ピュカナン・アダムス両艦長およびコンティーと会見した。が対応は変わらず、親書は最高位の役人にしか渡さないとはねつけられた。
香山は上司と相談するために4日の猶予をくれるように頼んだが、ペリーは3日なら待とうと答え、さらに「親書を受け取れるような高い身分の役人を派遣しなければ、江戸湾を北上して、兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しすることになる」と脅しをかけた。
  ペリーは、香山と会見が行われた日(7月10日(嘉永6年6月5日))、艦隊所属の各艦から一隻ずつの武装した短艇を派遣して、浦賀湾内を測量させた。
  この測量は幕府側に威圧を加えるという効果をもたらした。浦賀奉行は、当然ながら抗議した。その回答は、鎖国体制下の不平等な国際関係を排除するという考えであり、日本に対して不平等な国際関係を強いようとする考えが含まれていた。翌7月11日(嘉永6年6月6日)早朝から測量艇隊は湾内深くに侵入した。その護衛にミシシッピ号が付いていた。その行動の裏には、ペリーの「強力な軍艦で江戸に接近する態度を示せば、日本政府(幕府)の目を覚まさせ、米国にとってより都合の良い返答を与えるであろう」との期待があった。

幕府の方針

  この行動に幕府は大きな衝撃を受け、7月12日(嘉永6年6月7日)「姑く耐認し枉げて其意に任せ、速やかに退帆せしめ後事をなさん」との見地から国書を受領し、返事は長崎オランダ商館長を通じて伝達するよう、浦賀奉行井戸弘道に訓令し、交渉に当たらせた。
しかしこの時第12代将軍徳川家慶は病床に伏せていて、国家の重大事を決定できる状態には無かった。老中首座阿部正弘は、7月11日(嘉永6年6月6日)に「国書を受け取るぐらいは仕方ないだろう」との結論に至り、7月14日(嘉永6年6月9日)にペリー一行の久里浜上陸を許し、下曽根信敦率いる部隊の警備の下、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道がペリーと会見した。
  ペリーは彼等に開国を促す大統領フィルモアの親書、提督の信任状、覚書などを手渡したが、幕府は「将軍が病気であって決定できない」として、返答に1年の猶予を要求したため、ペリーは「返事を聞くために1年後に再来航する」と告げた。ここでは文書の受け渡しのみで何ら外交上の交渉は行われなかった。日本側の全権である浦賀奉行の戸田と井戸の二人は一言も発しなかった。 日本側は、会見終了して2、3日したら退去するものと考えていたが、ペリーは7月15日(嘉永6年6月10日)ミシシッピー号に移乗し浦賀より20マイル北上して江戸の港を明瞭に望見できるところまで進み、将軍に充分な威嚇を示してから小柴沖に引き返した。
艦隊は7月17日(嘉永6年6月12日)に江戸を離れ、琉球に残した艦隊に合流してイギリスの植民地である香港へ帰った。 ペリーは本国政府訓令の精神を貫徹することに成功した。

ペリー退去後の幕府の動向

  ペリー退去からわずか10日後の7月27日(嘉永6年6月22日)に将軍家慶が死去した。将軍後継者の家定(嘉永6年11月23日に第13代将軍に就任)は病弱で国政を担えるような人物ではなかった。しかし老中等にも名案はなく、国内は異国排斥を唱える攘夷論が高まっていたこともあって、老中首座阿部正弘は開国要求に頭を悩ませた。
7月1日、阿部は、広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで、幕政に加わらない人々にも、外交についての意見を求めたが、これは開幕以来初めてであった。国政に発言権の無かった外様大名は喜んだが、名案は無かった。これ以降は国政を幕府単独ではなく合議制で決定しようという「公議輿論」の考えだけが広がり、結果として幕府の権威を下げることとなった。

軍備増強

  さらに阿部はアメリカ側と戦闘状態になった時に備えて、江戸湾警備を増強すべく8月26日(嘉永6年7月23日)に江川太郎左衛門等に砲撃用の台場造営を命じた。江川は、予算・工期の関係からまず品川沖に11箇所の台場が造営されることとなった。
また、大船建造の禁も解除され、各藩に軍艦の建造を奨励、幕府自らも洋式帆船「鳳凰丸」を10月21日(嘉永6年9月19日)に浦賀造船所で起工した。オランダへの艦船発注も、ペリーが去ってからわずか一週間後の7月24日(嘉永6年6月19日)には決まっている。12月7日(嘉永6年11月7日)には、2年前にアメリカから帰国し土佐藩の藩校の教授となっていたジョン万次郎を旗本格として登用し、アメリカの事情等を述べさせた。

  1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航した。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので幕府は大いに焦った。ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのである。ここにペリーの外交手腕を見て取ることもできる。

6隻の大艦隊集結

  2月11日(嘉永7年1月14日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、2月13日(嘉永7年1月16日)までに旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピ」、「ポーハタン」(以上、蒸気外輪フリゲート)、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」(以上、帆走スループ)、「レキシントン」(帆走補給艦)の6隻が到着した。なお、江戸湾到着後に旗艦は「ポーハタン」に移った。3月4日(嘉永7年2月6日)に「サラトガ」(帆走スループ)、3月19日(嘉永7年2月21日)に「サプライ」(帆走補給艦)が到着して計9隻の当時としては大規模な艦隊が江戸湾に集結し、江戸は大きな動揺を受けた。
一方で、やはり浦賀には見物人が多数詰め掛け、観光地のようになっていた。また、勝手に舟を出してアメリカ人と接触する市民もいた。

大艦隊の来航に驚く幕府

  突然の大艦隊の来航に幕府は驚いたものの、前回の来航の時同様に日本側もアメリカ側も敵対的な行動を取ることはなく、アメリカ側は船上で日本側の使いに対しフランス料理を振舞って歓迎した。
日本人は鯛を喜ぶ、という情報を仕入れていたアメリカ側は鯛を釣って料理する、などの日本側を意識した部分が料理にあった
。一方、日本側の招待された面々は、十手と孫の手をナイフとフォークに見立てて作法の練習をしたという。アメリカ側の記述によると、最後に本来ならメニューを持ち帰るべきところを料理その物を懐紙に包んでもって帰り、しかも、様々な料理を一緒くたに包んでいたことに驚いたという。
ただしこの振る舞いは本膳料理には『硯蓋』という揚げ菓子があり、それを持って帰るのが作法であることに由来したものであった。

横浜での交渉

その応饗として、横浜の応接所で最初の日米の会談が行われた後、日本側がアメリカ側に本膳料理の昼食を出した。料理は江戸浮世小路百川が2000両で請負い、300人分の膳を作った。2000両を現代の価値に計算すると約1億5千万円近く、一人50万円になる。最上級の食材を使い、酒や吸い物、肴、本膳、二の膳、デザートまで100を超える料理が出された。しかし、「肉料理が出ないのは未開だから」、という偏見や、総じて生ものや薄味の料理が多かったのと、一品あたりの量がアメリカ人にとっては少なかったようで、ペリーは「日本はもっといいものを隠しているはずだ」と述懐している。ただし、「日本は出来る限りのことをやった」と述べたアメリカ側の人物もいる。その後、日本側は何かにつけてアメリカ側に料理を食べに行ったとされる。
約1か月にわたる協議の末、幕府は返答を出し、アメリカの開国要求を受け入れた。3月31日(嘉永7年3月3日)、ペリーは約500名の将官や船員とともに武蔵国神奈川近くの横浜村(現神奈川県横浜市)に上陸し日本側から歓待を受け、その後林復斎を中心に交渉が開始され全12箇条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなり、3代将軍徳川家光以来200年以上続いてきた、いわゆる鎖国が解かれた。
(直後の4月25日に吉田松陰が外国留学のため密航を企てポーハタン号に接触している)その後、5月下旬(嘉永7年4月下旬)に視察のため箱館港に入港、松前藩家老格・松前勘解由に箱館港に関する取り決めを求めるが、権限がないとして拒絶される。箱館から戻った後、伊豆国下田(現静岡県下田市)の了仙寺へ交渉の場を移し、6月17日(嘉永7年5月22日)に和親条約の細則を定めた全13箇条からなる下田条約を締結した。
  ペリー艦隊は6月25日(嘉永7年6月1日)に下田を去り、帰路に立ち寄った琉球王国とも正式に通商条約を締結させた。ペリーはアメリカへ帰国後、これらの航海記『日本遠征記』(現在でもこの事件の一級資料となっている)をまとめて議会に提出したが、条約締結の大役を果たしたわずか4年後の1858年に63歳で死去した。その後、アメリカは熾烈な南北戦争に突入し、日本や清に対する影響力を失い、結局イギリスやフランス、ロシアが日本と関係を強めた上に、清に対する影響力を拡大してしまった。

ペリーの『日本遠征記』

ペリーの『日本遠征記』によると、2度の来航で100発以上の空砲を祝砲、礼砲、号砲の名目で撃っており、日本側史料には、事前に日本側にこれらが行われることが伝えられ、さらに市民にもお触れが出ていたにもかかわらず、これが大混乱を巻き起こしたことが記録されているが、いずれも空砲であり被害は無い。ところが、来航した「ポーハタン」以下7隻の内、蒸気船2隻と帆船3隻が安房国(千葉県)洲崎を砲撃した、と日本側の古文書にある。
事件は1854年2月20日(嘉永7年1月23日)丑の下刻、洲崎を警護する備前岡山藩陣地への砲撃であった。艦船の砲弾は陣地の手前10メートルほどの海中に落下した。備前藩は非常召集を行って大砲5門を以って砲撃、蒸気船2隻は逃走したが、帆船3隻に命中した。備前の守備隊は舟艇で帆船への乗船を試み、反撃を受けて300名ほどが死傷したが、3隻を「御取り上げ」(拿捕)した。しかし、この事件は同年2月27日(旧暦2月1日)の記録を最後に途絶えている。
この日の事件を受けて土佐藩では、1854年2月21日(嘉永7年1月24日)、土佐藩士の明神善秀が山内容堂より、安芸郡奉行を仰せ付けられ、異国船打払令に基づき、異国船打払い御用を仰せ付けられている。

余談1(31星米国旗)

昭和20年(1945年)9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ艦上で日本の降伏文書調印式が行われた際、この時のペリー艦隊の旗艦「ポーハタン」号に掲げられていた31星のアメリカ国旗(1848年米墨戦争によりカリフォルニアが31州目となる)が本国より持ち込まれ、その旗の前で調印式が行われた。


カリフォルニア割譲後の31星の星条旗


左奥に31星米国旗が飾られている

余談2(琉球大安禅寺鐘)

1854年7月に琉球からペリー艦隊に送られた梵鐘はアナポリス海軍兵学校に飾られ、同学校フットボール優勝祝賀会で鳴らされていたが、1987年沖縄に返還されている。この鐘は正式名称を「旧大安禅寺鐘」、通称「護国寺の鐘」といい、1456年製造という。(なおアナポリスの海軍兵学校にはそのレプリカが飾られ、鐘をつるす鐘楼に取り付けられた英語のプレートには「1854年、琉球諸島の統治者によってペリー提督・アメリカ合衆国海軍に贈られた寺の鐘の複製」と記されている。)
ミシンの伝来: 1830年代から50年代にかけ、アメリカでは衣服製造用のミシンが発達していたが、1854年(嘉永7年)の2度目の来航のときには、ペリーから徳川将軍家にはミシンが送られたとされている。

  明治維新で最も大きな影響を受けたのは、それまで藩や幕府から報酬「禄」を得ていた「武士」そしてその武士の下働きをする「卒」という武士の禄で生活をしていた層である。これら士族(卒族を含む)は、基本的には幕府あるいは藩政府から収入を得ていたと考えられるから、収入源については現在の「公務員」に近いと考え、明治政府が分類していた「士」「卒」について、現在の公務員制度の観点から検討する。

「士族」の人口構成比は現在の公務員の約二倍

  明治5年の戸籍調査によると、その当時自分を「士族」あるいは「卒族」と名乗る層が約192万人いた。これは当時の人口約3310万人の約5.8%に相当する。
一方、平成28年(2016年)の国家・地方公務員ならびに地方公共団体の長、議員の総数は約305万人で、日本人人口が約12500万人であるから、公務員等の比率は2.4%と計算できる。 つまり、維新のころには、現在の約2倍超の公務員がいたこととなる、しかし幕末のころは諸藩も幕府もこれら士族(卒族含む)へ禄を満足に支払うだけの財政力がなかったため、明治新政府はまず、このような事態を踏まえた対応を考えねばならなかったといえる。

江戸時代の武士の割合

  江戸幕府ができて約100年後の1700年頃の日本の総人口は約2800~2900万人であったとの推計がある。これが明治3年(1890年)には3000万人超となった。江戸時代の諸藩の武士の割合は以下の通りとの研究がある。

  • 江戸時代の武士の割合
  •   南部藩 6.9% (1711年)
  •   久保田(秋田)藩 9.8% (1849年)
  •   陸奥中村藩 26.0% (1681年)
  •   津和野藩 7.2% (1805年)
  •   薩摩藩 26.38% (明治4年鹿児島県禄高調)

 

参考

士族の没落

   江戸時代までの武士階級は戦闘に参加する義務を負う一方、主君より世襲の俸禄(家禄)を受け、名字帯刀や殺人権(切捨御免)などの身分的特権を持っていた。
しかし、武士は、江戸時代における平和を通じて貴族化し、内外の問題にも無関心になり、百姓から収奪した年貢を食いつぶす存在と化した。

こうした旧来の封建制的な社会制度は、明治政府が行う四民平等や徴兵制などの近代化政策を行うにあたり障害となった。1869年(明治2年)の版籍奉還で、武士身分の大半が士族として政府に属することになるが、士族への秩禄支給は政府の財政を圧迫し、国民軍の創設においても士族に残る特権意識が支障となるため、士族身分の解体は政治課題となった。

   士族の特権は段階的に剥奪され、1873年(明治6年)には徴兵制の施行により国民皆兵を定め、1876年(明治9年)には廃刀令が実施された。秩禄制度は1872年に給付対象者を絞る族籍整理が行われ、1873年には秩禄の返上と引き換えに資金の提供を可能とする秩禄公債の発行が行われた。そして、1876年に金禄公債を発行し、兌換を全ての受給者に強制する秩禄処分が行われ制度は終了した。
また、苗字の名乗りは1870年に平民にも許可され、1875年には義務化された(国民皆姓)。

この他、1871年には異なる身分・職業間の結婚も認められるようになった。
一時、士族に華族と別立ての爵位を授与しようという議論が岩倉具視らにより模索されていた。1876年(明治9年)の木戸孝允らの案では、華族に公爵、伯爵、士族に士爵の爵位を授けることが構想されていたが、木戸の死と士族の反乱などが重なり、沙汰止みとなった。その後、明治新政府の元勲であった伊藤博文から維新に功労があった武士を勲功華族とする案が提唱され、これが採択されることにより、明治の元勲らは勲功華族として取り立てられる一方、一般の士族に対する恩典は名字帯刀や秩禄はおろか、名分上の栄誉さえも許されず、単に戸籍における族称のみが士族に許されただけであった。


西南の役後日談

  西南の役は、1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱とされる。明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、日本国内で最後の内戦といわれる。

  この戦争による官軍(政府軍)死者は6,403人、西郷軍死者は6,765人に及んだ。この戦争では多数の負傷者を救護するために博愛社(日本赤十字社の前身)が活躍した。また、特に顕彰されたわけではないが、類似した例に熊本の医師・鳩野宗巴が、薩軍から負傷兵の治療を強要された際に、敵味方なく治療することを主張し、これを薩軍から認められ実施したことが挙げられる。宗巴の行動は戦後、利敵行為として裁判にかけられたが、結局無罪判決を下されている。 当時の鹿児島県令大山綱良は官金を西郷軍に提供したかどで逮捕され、戦後に長崎で斬首された。

  これら不平士族の波乱は鎮圧され、多くの士族は没落して故郷へ帰るなどしたが、一部には知識や人脈、既得権益を生かして実業家に転向する者も見られた。
例えば、日産コンツェルンの創始者鮎川義介、日本初の百貨店(三越百貨店)創立者日比翁助などが挙げられる。

また、士族銀行や殿様銀行と呼ばれる士族の資産を活かした銀行(国立銀行)が設立され、日本の殖産興業政策を活性化させた。武芸や学問に通じた者は、軍人、警察官、教師など官吏に転向したり、かつての藩主と藩士の縁故関係から、県・郡役所に採用された例も多い。
酪農のように、元来の農民がこれを忌避したがために、士族がこれを手がけて成功した例もある。

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