戦国時代からの教育思想「詮議」Debating

 

「幕末薩摩のちびっこ教育(郷中-ごじゅう-教育)がものすごかった」話

 

当時の薩摩の子供は、まず早朝にひとりで先生(主に近所のインテリ武士)の家に行って儒学や書道などの教えを受けるのですが、誰を先生に選び、何を学ぶかは、子供が自分で勝手に決めていいんです。そして次は子供だけで集まって、車座(くるまざ)になり「今日は何を学んだか」を各自が口頭で発表します。決まった校舎や教室はなくて、毎日、子供が順番で、地域の家に「今日はこの家を教室に貸してください」と交渉します。
何より大事なのは、皆の先生がバラバラなことです。思想が統一されないし、話す本人は復習になるし、口伝え・耳聞きによって、知識を皆で効率よく共有できる。ちゃんと理解してるか、親よりも厳しく仲間同士でチェックし合います。とにかく先輩は怖い。

 

「詮議」という議論手法

対話重視という意味で、郷中教育の中で特に重視されたのが「詮議(せんぎ)」というメソッドでした。今でいう「ケーススタディ」で、起こり得るけど簡単には答えが出ないような状況をいろいろ“仮想”し、その解決策を皆で考え合う訓練です。
例えば「殿様の用事で急いでいるが、早駕籠(はやかご)でも間に合わない。どうするか」とか、「殿様と一緒に乗っていた船が難破した。向こうから一艘(そう)の助け船が来たが、乗っているのは自分の親の敵(かたき)だった。どうするか」とか、「道で侮辱された。どうするか」といったリアルな設問を次々と挙げ、各自が自分だったらどうするかを述べ、皆で議論する。「ハーバード白熱教室」みたいですよね。あの番組は日本でも大人気でしたが、日本人のDNAに、アメリカより先にこれをやってきた記憶があるとさえ思えます。

■「詮議」は日本のナショナルブランドだった
「詮議教育」は、戦国時代くらいまでは日本各地で行なわれていたようです。江戸時代になるまでは、公家や荘官や守護大名のようなご く一部のエリート以外は字を読めなかったので、一般に武士は、戦(いくさ)の成功・失敗事例を文字でなく耳で学び、皆で議論し、実 践的スキルを向上させる学習会を行なっていた。
江戸時代に入ると、藩校のようにテキスト重視の教育が普及していきますが、文字は使わないけど、極めて非常に実践的な中世式の教育スタイルが、九州の端っこにだけ「子供版」として残っていたわけです。実際、当時の薩摩は、国内で最も識字率の低い土地でした。しかし、「明治国家をつくり出した判断力」が、文字でなく口伝えの教育で育まれたのが面白いところです。
そしてその結果得られたものは「判断力」、「決断力」、「実行力」を伴った、まさに「知恵」ですね。
定まった知識をテキストで身につけるのでなく、(1)あらゆる事態を仮想し、(2)それに対処するアイデアを考え出し、(3)その中から正しいものを選択し、(4)実行する“度胸”を持つという。
古い話で恐縮ですが、「野村ID野球」なんか、ちょっとそれに近かったんじゃないかな。野村監督は古田たちに「野球とは何か」まで質問して。予算はなくても当時のヤクルトは強くなりましたよね。まさに、野村監督のような存在があったのでしょう。

 

リーダー(頭)の重要性

 郷中教育におけるグループリーダーを「二才頭(にせがしら)」と呼んだのですが(二才[にせ]は薩摩で若者の意)、例えば薩摩の城下町で「名二才頭」と噂になっていたのが、下級武士だった西郷隆盛でした。西郷の地元では、子供たちも行儀よく、顔つきも違うと評判だった。西郷は島津斉彬(なりあきら)に抜擢されますが、つまり、天才的な殿様にいきなり召し出されたわけではなく、6歳から20歳ぐらいの間でちゃんと、あいつは指導力があると自然に現場で証明されてたわけです。
だから薩摩藩は校舎も教師もなかったけど、郷中教育で「名二才頭」と呼ばれる若者を採用すれば、後に明治の国家をつくるような人材を効率的に選べた。話が飛ぶけど、今の日本で良い政治家がいないとよくいわれますが、やはり草の根の根っこのところでお互いがお互いを選び合うようなシステムがないと、それは難しいものです。

想定外の事態の想定

1863年の薩英戦争は、その前年、横浜港付近の生麦村で発生した薩摩藩士が、英国人を殺傷した事件「生麦事件」の賠償・補償をめぐって、イギリス軍が薩摩藩を威嚇したことに始まります。 この生麦事件とは、横浜港付近の武蔵国橘樹郡生麦村付近を通行中の島津久光(ひさみつ)の行列を乱したイギリス人4名のうち3名を、島津家家来の奈良原喜左衛門、海江田信義らが殺傷した事件です。薩摩藩は、事件発生後、直ちに島津久光の駕籠をとにかく内陸へ向け必死に走らせた。これはイギリス軍が直ちに上陸し、島津久光の身柄を拘束しようとしていたことを予想するかのような素早い行動で、実際イギリス陸戦隊は時間をおかずに上陸し、島津久光の一隊を追跡した。 

このようなことから、生麦事件のような事態すら彼らの念頭にあった(想定内だった)のではと思われます。
「刀はめったなことでは抜くな。抜いたらただでは収めるな」というのが薩摩武士の道徳教育だったからとどめは刺した、しかしその後の英国軍の動きを想定して直ちに英国軍の追手が追っかけてこれない距離へ島津久光の駕籠をとにかく内陸へ向け必死に走らせたと思われます。実際、イギリス陸戦隊は即座に上陸し、島津久光の身柄を拘束しようとしましたが及びませんでした。
また、薩英戦争における薩摩軍の対処も独特でした。 鹿児島の沿岸は大きく焼き払われるなど戦力の差は明確に英国海軍に味方しましたが、薩摩軍は英国海軍の大将が乗った旗艦ユーライアラスへ向けて砲弾を集中させ、艦長や副長の戦死や軍艦の大破・中破など大きな損害を与え、英国軍の戦意を消失させます。薩摩藩はとても勝ったとはいえないけど、英国にその実力は認めさせることはできた。結果的には、「これは簡単に占領できる相手ではない。日本に親イギリス政権を樹立するために組む相手として信用されその後、薩摩と英国の関係は強化される。  

思考訓練モデルとしての「詮議」

郷中での詮議の様子
「詮議」とは、もともとは薩摩藩の下級武士の子弟に対して行われた文武奨励の郷中教育において採用された議論手法で、問答形式(詮議掛け)で課題を詰めていくことにより、実際的、多角的かつ論理的に討論を進め解決策を模索する手法です。この議論においては、その決断の結果がもたらすであろう次の状況への対応(想定内、想定外)についても議論があったと思われます。
鹿児島では、意思決定の前に「詮議」が行われ、多方面から検討され最終的な決断が下され、それ以降はその決断に反してはならない(義を言うな)ということで全体が一丸となって決断された方向へ進むことになります。
また、当時の「詮議」とは儒教の考え方と生活規範を基本にした(口頭による)論戦で意見を交換しながら論理的に周囲を説得する手法でもあり、年長者の経験や歴史書物を研究して解決策を見出す「官僚」育成型の藩校教育とは一線を画していたと言えます。

   

詮議掛け
「詮議」とは通常「取り調べる」とか「詳しく調べる」という意味で使われます。しかし郷中では、二才の精神を研磨し、思考の適正、判断の適確を期する思考訓練の方法とされています。さらに、単なる知力や判断力の養成ではなく、臨機応変かつ実行責任を伴なう実践的判断力を養うことを目指しているといえます。その訓練方法は、主に「詮議を掛ける」という詮議の問題を課すことから始まります。

詮議掛け手順

詮議の問題を課すことを「詮議を掛ける」という。
これを行なう時は、先ず「詮議の籤」を引く。これは小さい竹筒の中に、(1)から(30)までの番号を記入した棒が入っていて、これを籤として引く。 最も若い番号を引いた者が、「詮議を掛ける」立場に立つのである。
しかし時には現実社会の中で「詮議を掛ける」(詮議の問題を課すこと)こともある。
例えばみだりに他人の家の垣根の竹を切り採っている者を見かけたときに、直ちに近くに寄って以下の詮議を掛けるのである。

詮議掛:「汝、もし竹を切らんとする時、その家の下人(使用人)が出てきて汝の頭上に糞汁をかけたときにはどうするか」と。
詮議を掛けられた者はすぐその場で解答しなければならない。そしてその解答が適当と認められるまでは、どこまでも追及される。
「詮議掛け」は原則として二才達の間で行なわれた。しかし時には二才が稚児に対して試みることもある。この時はもちろん簡単な問題である。
※二才(にせ)」とは、15-25歳の青年(グループ)のこと。
他に子稚児(こちご、6-10歳)、長稚児(おせちご、11-15歳)、長老(おせし、妻帯した先輩)のグループが見られ、それぞれ「頭(かしら、稚児頭、二才頭など)」が選ばれ郷中での生活を監督していた。

  

詮議の例

  • 問:「道の途中で狼藉者に出会い、突然頭部を殴打されたとする。 この場合はどのように対処するか?」
  • 答:「直ちに斬り捨てる。」
  • 問:「斬り捨てた後はどうするか?」
  • 答:「その筋(役所)へ届け出る。」

新納忠元(にいろ ただもと)の郷中教育

新納忠元(1526年 - 1611年)は,郷中教育の原点とされる規律である『二才咄格式定目(にせばなしかくしきじょうもく)』をつくった人物である。
新納氏は 島津貴久と義久の二代に仕えた島津氏の家臣で 智勇に優れた武将として知られ、その活躍から 鬼武蔵 の異名で恐れられる。
一方 和歌や連歌 漢詩に通じた教養人でもあった。また,島津忠良(日新公)からは 「看経所にその名を録し,島津氏に無くてはならない四人の一人として残そう」とまで評された人物で,島津氏で武功者を数える際,まず最初に指を折る(名前が挙がる)人物であったことから「大指武蔵(親指武蔵 」と称されたという。
朝鮮役に薩摩から約一万の将兵が出陣した際,戦役が長びき,次第に青少年の風儀が乱れてきたため,留守居役の新納忠元は,改善の手段として,若者たちが互いに何でも話し合える集いを作り 「二才咄」と名付けた。
また 「武道を嗜み,山坂の達者,忠孝の道にそむかず,礼儀作法を乱さず,虚言を言わず,仲間同士は合点ゆくまで話し合う必要がある」など,日常守らねばならない規約を 二才咄格式定目 と定めた。

 

「二才咄格式定目」(にせばなしかくしきじょうもく)

  • 第一武道を嗜むべき事
    (武道が第一である。)
  • 兼ねて士の格式油断なく穿儀致すべき事
    (武士道の本義を油断なく実践せよ。) 
  • 万一用事に付きて咄外の人に参会致し候はゞ用事相済み次第早速罷帰り長座致す間敷事
    (用事で咄(グループ)外の集まりに出ても、用が済めば早く帰れ、長居するな。) 
  • 咄相中何色によらず、入魂に申合わせ候儀肝要たるべき事
    (何事も、グループ内でよく相談の上処理することが肝要である。)
  • 朋党中無作法の過言互いに申し懸けず専ら古風を守るべき事
    (仲間に無作法など申しかけず、古風を守れ。) 
  • 咄相中誰人にても他所に差越候節その場に於て相分かち難き儀到来致し候節は、幾度も相中得と穿儀致し越度之無き様相働くべき事
    (グループの誰であっても、他所に行って判らぬ点が出た場合には仲間とよく話し合い、落ち度の無いようにすべきである。) 
  • 第一は虚言など申さざる儀士道の本意に候条、専らその旨を相守るべき事
    (嘘を言わない事は士道の本意である、その旨をよく守るべし。) 
  • 山坂の達者は心懸くべき事
    (山坂を歩いて体を鍛えよ。) 

二才と申す者は、落鬢を斬り、大りはをとり候事にては之無き候 諸事武辺を心懸け心底忠孝之道に背かざる事第一の二才と申す物にて候 此儀は咄外の人絶えて知らざる事にて候
右条々堅固に相守るべし もしこの旨に相背き候はゞ二才と言ふべからず 軍神摩利支天八幡大菩薩 武運の冥加尽き果つべき儀

(髪型や、外見に凝ったりすることが二才(薩摩の若者)なのではない。万事に質実剛健、忠孝の道に背かないことが二才の第一である。この事は部外者には判らぬものである。これらはすべて厳重に守らなくてはならない。背けば二才と呼ぶ資格はなく、軍神にかけ、武運尽き果てることは疑いがない。)

 

※「二才(にせ)」とは、15-25歳の青年(グループ)のこと。他に子稚児(こちご、6-10歳)、長稚児(おせちご、11-15歳)、長老(おせし、妻帯した先輩)のグループが見られ、それぞれ「頭(かしら、稚児頭、二才頭など)」が選ばれ郷中での生活を監督していた。

出典:歴史学者 磯田通史先生 他より編集


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